グローバル人づくり第92号では、海外勤務者の立場から海外赴任前に知っておくべき医療情報について解説しました。2003年に東南アジア、中国などで猛威を振るったSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行は海外に進出する企業にとって、様々な危機管理を行う上で社員の健康管理の重要性を再考する機会になったと思われます。また近年、新型インフルエンザの流行も危惧されるなかで、海外に進出する企業はどのような健康管理対策をすべきでしょうか?まずは海外勤務者に関係した最近の裁判事例を挙げ、その判決から社員を海外へ派遣したり、出張させたりする場合、企業へ求められる健康管理対策について考えてみたいと思います。
平成16年9月7日最高裁判所第三小法廷にて、ヘリコバクター・ピロリ菌に感染し、慢性十二指腸潰瘍の既往を有する労働者が業務遂行中に発症したせん孔性十二指腸潰瘍が業務上の疾病に当たるとされた事例に対し、それまでの一審、二審判決を覆し、海外出張者の過重業務を認め、労災認定の判決が下されました。詳細を以下に示します。
神戸市の貿易会社に勤務する当時37歳の男性会社員が、取引先の海外の顧客を案内するため国内(大阪、東京、三重等)を5日間出張し、1日休暇を取りそれまでの記録整理と翌日からの海外出張準備を行った。この5日間において、商談その他の付随業務及び接待に要した時間は、合計68時間(1日当たり平均13.6時間)であった。翌日よりの海外出張先は、大韓民国、台湾、シンガポール、マレーシア、タイ及び香港で期間は11日間。業務内容は、取引先の取締役等に随行し、現地代理店の業務の促進、営業等を行うというものであった。11日間の接待を含む労働時間は合計114.5時間(1日当たり平均約13.1時間)であり、時間外労働は62時間、休日労働は2日間であった。航空機でバンコクから香港へ移動する途中の午後3時45分ころから腹痛を訴え、香港到着後も腹痛が治まらず、同日午後10時ころホテルから救急車で病院に搬送された。この男性会社員は、同日病院に入院し、抗潰瘍剤の投与を受けたが、翌日に本疾病と診断されて開腹手術などの治療を受けた。この男性会社員は過去に十二指腸潰瘍に罹患し、何度か再発を繰り返し、その度に抗潰瘍剤の投与と食事指導が行われていた。本件疾病発症当時は通院しておらず、医師の処方による抗潰瘍剤も服用していなかった。
一審判決では、本件各出張がこの男性会社員に著しいストレスを与えたとまでは認められない上、この会社員が前回の疾病後に十二指腸潰瘍の治療を怠っていたことからすると、このことが本件疾病発症の原因ではないかと疑われ、この会社員のストレスが相対的に有力な原因として本件疾病を発症させたとまでは認めることはできず、本件疾病が各出張中の業務上のストレスに起因する疾病であると認めることはできないと判断された。
しかし、最高裁判決では、一審を覆し、この会社員の過重労働が認められる判決となりました。詳細を以下に示します。
上告人が本件疾病の発症以前にその基礎となりえる素因又は疾患を有していたことは否定し難いが、同基礎疾患等が他に発症因子がなくてもその自然の経過によりせん孔を生ずる寸前にまで進行していたとみることは困難である。そして、本件疾病を発症するに至るまでの上告人の勤務状況は、4日間にわたって本件国内出張をした後、1日おいただけで、外国人社長と共に、有力な取引先である英国会社との取引拡大のために重要な意義を有する本件海外出張に英国人顧客に同行し、14日間に六つの国と地域を回る過密な日程の下に12日間にわたり、休日もなく、連日長時間の勤務を続けたというものであったから、これにより上告人には通常の勤務状況に照らして異例に強い精神的及び肉体的な負担が掛かっていたものと考えられる。以上の事実関係によれば、本件各出張は、客観的にみて、特に過重な業務であったということができるところ、本件疾病について、他に確たる発症因子があったことはうかがわれない。本件疾病は、上告人の有していた基礎疾患等が本件各出張という特に過重な業務の遂行によりその自然の経過を超えて急激に悪化したことによって発症したものとみるのが相当であり、上告人の業務の遂行と本件疾病の発症との間に相当因果関係の存在を肯定することができる。本件疾病は,労働者災害補償保険法にいう業務上の疾病に当たるというべきである。
以上が今回、海外出張者の過重労働を認定した最初の判例であり、海外勤務者の健康管理対策を考える上で、既往症に関してもそれが業務遂行により過大なストレスとなり増悪することが予見されるならば、企業は安全配慮義務を履行するために何らかの対策をとる必要があることになります。
この判例をもとに海外勤務者の健康管理を行う上で、事業者が遵守しなければならない法律と関連する諸制度をあげ、一次及び二次予防の観点から現状認識と問題点の洗出しを行い、より良い健康管理体制の構築が出来るよう考えてみたいと思います。
先ず、事業者が法律に則した健康診断(以下、健診)を行い、内容が適切であるか確認することが必要です。2002年、海外勤務健康管理センターが全国の海外進出企業を対象として行ったアンケート調査(有効回答数450社)では7%の企業が海外派遣前及び派遣後の健診を行っていませんでした。
海外派遣労働者の健診に関する法律として労働安全衛生規則(以下、安衛則)第四十五条の二があり、要旨は表.1のようになっています。
これら法規は健康管理を行う上で必要最低限の事項を定めたものであり、実際の運用は個々の企業に委ねられています。どのような健康管理を行うか検討を重ね、人事労務担当者と産業保健スタッフが連携し、協力し合うことでより良い健康管理体制の構築が望まれます。以下、この健診の運用について考えてみたいと思います。
安衛則に定められた健診の対象者は、6ヵ月以上海外へ勤務する本人のみで短期の出張者や家族は含まれていません。近年、日本企業が多く進出している北京や沿岸部の大連、上海、広州などの都市は、日本の主要都市から飛行機で3、4時間程度であり、時差も1時間と欧米に比べアクセスが良いことに加え、現地日本人労働者と現地労働者の人件費格差の問題から海外派遣を短期の海外出張に切り替えて対応する企業も増えています。また業務の専門化が進み、健康上何らかの問題があっても代行できる者がなく、健康上リスクを持った労働者の海外出張や赴任も多くなることが考えられます。一般的に出張者は、海外へ行く上で健康状態の渡航可否判定を受けないことや短期間に多くの業務をこなさなければならない状況に加え、渡航先の健康管理に必要な情報供与、予防接種などの十分な対策を受けていないことが考えられます。2002年、海外勤務健康管理センターが関東地方の海外進出企業を対象として行ったアンケート調査(有効回答数192社)では、44社23%の企業で何らかの海外出張者への健康管理対策があると回答した企業がありましたが、対策がないと回答した企業は125社、65%を占めました。これらの問題に対し、まず企業の健康管理スタッフが社員の海外出張の実態を把握することが先決であり、そのためには人事労務担当者との連携が必要と考えます。また海外で家族に健康上の問題が生じた際、派遣者の就労継続が不可能になることもあり、これら派遣者以外への対策も必要と思われます。
海外派遣前及び派遣後に行う健診項目は、安衛則では定期健診項目に加え医師が必要と判断したものとあり、どのような項目を選択するか派遣者の年齢、性別、既往、派遣先などを考慮して決定すべきものですが、一般に上記項目に加え感染症に関する抗原抗体検査、便虫卵検査、血液型、上部消化管検査、腹部超音波検査、便潜血検査などが行われています。また、前述の判例にもあるように既往症についても、本人の同意のもとに必要ならば更に精密検査を行うことも考慮すべきと思われます。
海外で独立した事業に従業員を派遣したり、恒常的に勤務させる場合、海外の指揮命令権者の下で就労することになり、日本の労働法は適応されないことになります。また、海外では一部の国を除いて日本のように定期健診の実施を義務付けていないため、海外派遣者に対する健診が実施されないことが考えられます。しかし現在、企業に対する従業員への安全配慮義務や健診受診の機会均等などを鑑み、海外派遣者に対し国内の定期健診に準じた健診を行うことが望まれます。
海外派遣者が一時帰国し国内で健診を受診する際、帰国スケジュールの後半に健診日程を予定すると精密検査が必要となった場合、日本国内で検査を受けることが出来なければ、派遣先の国で検査を受けなくてはならなくなります。医療レベルの低い地域での精密検査は困難なことが多く、海外派遣前の健康教育で健診を受ける時期を帰国の前半に予定するよう周知徹底させることや、人事労務担当者との連携により健診未受診者がないよう運用を確実なものにすることが必要と思われます。
海外進出企業を対象として行ったアンケート調査では、渡航の可否判定を行う際、健康上の判定基準を持っているのは31%でした。職務の専門化が進む中、健康上リスクを持つ従業員の派遣を行わなければならない状況も生じ、大企業でも海外派遣労働者の人選に苦慮する事例は多く、判定基準が形骸化している場合もあるかも知れません。今後、判定基準の内容や企業としてどのような健康管理を行うのか再度検討すべき問題も多いと思われます。また前述のように海外出張者に対する健康管理対策が実施されている企業は少なく、短期の海外出張を繰り返すような場合や満足な医療が受けられないような地域への出張者は、海外赴任者に準じた対策が必要と思われます。
海外派遣前の健診では、感染症などに関する検査を行ったり、派遣される国によって未だHIV陰性証明を要求される場合があります。これらの検査結果により渡航の可否が左右されることが生じ、個人情報保護の観点から、事前に想定した対策を人事労務担当者と検討しておく必要があります。
海外派遣前の健康教育は予防医学の観点からも一層の充実が期待され、日常の自己健康管理に関する知識に加え、派遣先の特有な疾患や医療制度等に関する知識の啓蒙が必要になります。また疾病予防に関し、ワクチンの接種や予防内服に関する知識に加え、赴任先によっては熱中症や高山病をはじめとする気候や高度に関係する疾患の知識も必要になる場合もあります。最近、新型インフルエンザの流行が危惧され、現地での抗インフルエンザ薬の入手の可否について話題となっていますが、企業としては抗インフルエンザ薬が無効である場合も想定した総合的な健康管理対策の啓蒙が必要と思われます。また安衛法第59条第2項により派遣者が帰国し国内の業務に就く際、作業内容が変わるならば、雇い入れ時の教育に準じて安全衛生教育を行うことになります。
海外派遣者が不利益を被らないような措置として、労災保険法には海外派遣労働者特別加入制度が設けられています。(同法第27条7号、第30条)この制度は任意加入制度であり、事業主が労働基準監督署に申請するものです。但し、現地での就労形態が労働者でなく事業主となるような場合加入出来ないこともあります。平成14年2月12日付け基発0212001号「過重労働による健康障害防止のための総合対策」では、企業により一層の安全配慮義務を求めた内容になっており、この制度の活用を検討することも必要と思われます。
今後、経済のグローバル化とともに海外赴任者、出張者の増加が予想され、以前のように健康な社員のみが海外赴任する時代から、健康上様々なリスクを持つ社員が海外赴任や出張する時代となり、海外での過重労働によりそれらが増悪することも考えられます。今後は生活習慣病対策や過重労働対策、メンタルヘルス対策なども含めた海外勤務者の健康管理対策が必要になると考えます。
海外勤務者の健康管理について、下記の図1をもとにどのような健康管理が望まれるか考えてみたいと思います。企業は、社員を業務で海外へ派遣させる以上、社員が現地で安全で健康的に働けるよう安全配慮義務が生じます。その義務を履行するためには、企業が社員の赴任や就労の継続を判断する上で、下記のような健康管理システムの構築を行い、社員の自主的な健康管理意識の向上につながるような対策が必要と思われます。
1)人事労務担当者が海外勤務者の労働実態の把握を行い、海外出張の期間や出張先、業務負荷など具体的な情報について産業医をはじめとする健康管理スタッフと共有する。
2)健康管理スタッフは、上記の情報と健康診断や問診等で得られた健康情報を元に、人事労務担当者へ適正配置や過重労働防止につながる提言を行う。
3)健康管理スタッフは、労働者に対し、健康保持増進につながる医療サービスを提供するよう心がけ、健康教育や適切な医療支援を行う。
近年、雇用形態の多様化の流れは国内のみならず、海外の日系企業にもその波は影響しており、国内の企業から派遣された従業員に加え、国内の派遣企業から海外派遣された従業員、海外で現地採用された日本人従業員など様々な雇用形態が生じています。今後これらの健康管理対策や現地従業員への健康管理に関し、企業としてどのように対応していくのか企業理念の確立の必要性や企業の社会的責任が問われていく中で、人事労務担当者と産業保健スタッフの役割は非常に重要なものになると思われます。
海外勤務健康管理センターのホームページ:http://www.johac.rofuku.go.jp/media/library.htmlをご覧下さい。
(表.1)